無くなる地名

ページID:1011653  更新日 令和5年12月5日

民俗学の祖、柳田 國男(やなぎた くにお)氏によると、地名は「二人以上の間に共同に使用せらるる符号である」とされています。人々が社会生活を送るため、場所を共通認識するために使われます。

昔、人々が最も大事にしたものは田畑でした。田畑は1区画ずつ細かく呼び名がありました。明治以前は、土地に番地はなく、場所を確定するため細かな地名が必要でした。たとえば、「三角田」、「いも畠」など形や植えられた作物によるものや、「松本屋敷」。極端な例ですが「上ノはる中道ノ左右」などの名前もありました。当時は社会の流動性は少なく、村人が分かればそれでよかったのでしょう。

近代になると、強力な中央集権の明治政府が成立し、税制をそれまでの年貢から金納に変えました。税をとるため土地の所有を明確にして、統一した表示のための字と、○○番地という地番が設定されました。

市内で地番が最も多いのは須玖地区で約2100、少ないのは上白水で約1300です。番地が多いからと言って、土地の広さには関係ありません。字名は昔からの名が付けられたようです。字に漏れた土地の名は徐々に失われていきました。

戦後、春日市が福岡市の周辺地域として都市化していく中で、農村を基盤とした字、番地制度は徐々に不便となり、新たな町名に代わっていきました。昭和30年代後半から40年代始め、光町、大和町、千歳町、宝町などが成立し、紅葉ヶ丘、若葉台などが住宅開発され、そのまま通称とされました。これらは旧来の地名とは関係なく付けられました。昭和56年以降に、ちくし台、大谷、岡本、弥生などが、○丁目○○番地として表記され、都市化した春日市にはきわめて便利なものに変わりました。地名も人間の社会生活の上に成立した歴史的産物です。歴史がそうであるように、不要なものは捨てられ、より便利な新たなものが取り入れられます。

今、自分の住んでいる場所の字名を知っている人は少ないでしょう。しかし現在も、一部の遺跡名に字名を使っているものがあります。ウトグチ遺跡、立石遺跡、トバセ遺跡、須玖タカウタ遺跡などです。ウトグチ、立石、トバセ、タカウタ。これらはすべて字名です。

住所が便利な町名に変わるのは仕方がないことですが、長い歴史の中で先人が名付けた地名はそれなりの理由があり、失われていくのは残念なことです。少しでも元の名を残すことを考えてはいかがでしょう。

春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)

(市報かすが 平成30年9月15日号掲載)

図:昔の地名の書かれた地図
明治時代の地図に重ねた小倉の字の一部

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