寺の記憶
ページID:1010934 更新日 令和5年12月5日
寺院や城、館など、大きなまたは重要な建築物があった痕跡は、建物がなくなっても長い間残ります。それは、地名に残されることが多くあります。
市内でも、今その場所に寺はないですが、地名として残っている例が幾つかあります。例えば小倉地区に、「寺屋敷」という字名(あざめい)があります。旧小倉村の中心から北側の丘陵(きゅうりょう)地一帯、(現住居表示でいえば、小倉4丁目〜5丁目)です。須玖北地区に浄土宗の無量寺(むりょうじ)という寺があります。無量寺は小倉で創建され、一度火災で廃絶し、江戸時代に須玖で再建されたとされています。寺屋敷は小倉時代の無量寺の跡ではないかと考えられています。
上白水地区にも「寺屋敷」と呼ばれる場所があります。現在上白水老人憩の家があるところです。字名では「石塚」です。上白水には、鎌倉時代乳峰寺(にゅうほうじ)という禅宗の寺が創建されたと古い記録に残っています。この寺には威徳庵(いとくあん)という僧が居住する塔頭(たっちゅう)が作られたとされます。乳峰寺は早く廃絶しますが、威徳庵はこの地に残り、明治の初めごろまでありました。寺屋敷は、乳峰寺か威徳庵の記憶だと思われます。ここに行くと観音堂が残っています。
春日の字(あざ)惣利に「アミダジ」と呼ばれる一帯があることが分かりました。漢字を当てるならば「阿弥陀寺」でしょう。阿弥陀という言葉から浄土系の寺が考えられ、春日地区にある浄土真宗長円寺(ちょうえんじ)の前身ではないかと考えられます。
寺は長く続くものと思われていますが、近世以前は、寺には檀家(だんか) 制度はなく、自活が原則でした。領地を持つか、強い庇護(ひご)者を持つかでないと永続できませんでした。そのような条件を持つのは大寺院や、有力寺院で、その他の中小寺院はいつ無くなるか分からない不安定なものでした。それが中世の末ごろ、村人が強くなり、村のことは自分たちで決め、警察権も持ち、年貢も村として請け負うという、自主性の強い村落共同体になっていく中で、葬祭などを扱う村人のための寺が成立しました。無量寺は、天文(てんぶん)年間(1532〜1554年)、長円寺は天正(てんしょう)年間(1573〜1592年)に創建されたとの伝承があるのは、このような例でしょう。寺院経営が安定するのは、江戸時代幕府が檀家制度を確立して以降になります。
春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)
(市報かすが 平成29年3月15日号掲載)

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