白水の城(1)

ページID:1011237  更新日 令和5年12月5日

戦国時代、下白水に小さな城があったことを知っていますか。

江戸時代の地誌『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』は、天浦城(あまうらじょう)があり、嶋 鎮慶(しま しげよし)の居城であったと伝えています。

嶋 鎮慶は筑紫 広門(ちくし ひろかど)の重臣でした。筑紫氏は鳥栖市を中心に、筑前、肥前、筑後の国境地帯を支配した国人大名です。鎌倉時代以来の筑前守護であった少弐(しょうに)氏の傘下でしたが、周防の大内(おおうち)氏が少弐氏を攻めたとき、耐えきれず少弐氏から離反し、大内氏に付きました。その後大内氏が滅ぶと大友(おおとも)氏に、その後は毛利(もうり)氏に付いたりしています。やがて龍造寺(りゅうぞうじ)氏が肥前の戦国大名となると今度は龍造寺氏に付き、大友氏と戦いを繰り返しています。

大友氏は、筑前にも強い勢力を持ち、糟屋郡立花城、御笠郡岩屋城を拠点に博多を支配下に置いていました。筑紫氏も隙あらば博多に進出することを狙っていたようです。江戸初期に 立花(たちばな)家の家臣が書き残した『豊後覚書』によると、筑紫勢は那珂郡で大友勢と小競り合いを繰り返していたようです。

天浦城は筑紫氏側から見ると、最も博多に近く、筑紫氏の拠点である背振山系東部からの交通の要衝でもあり、大友氏の動きを見張り、那珂郡進出の足掛かりとなる拠点だったと思われます。しかし、近世の城や中世の山城と比べると、小規模で砦(とりで)程度のものでした。ただし、当時の城の多くは小規模なものです。筑紫氏は30程度の城を持っていましたが、城を守備維持する兵士の数を考えると大規模な城は必要ありませんでした。

『筑前国続風土記』には天浦城と書かれていますが、筑紫家の江戸時代の記録では「白水城」となっており、当時は白水城と呼ばれていたのではないかと思われます。また、これには「白水城筑紫良甫(よしすけ)在番」と書かれ筑紫良甫が守っていたようです。

鎮慶は大友氏側の立花城に使いに行き、帰りに博多の大友氏の生糸の蔵を襲っています。大友勢から追われ、逃げるときには、近くの白水城ではなく筑紫野市の城に逃げています。このことから鎮慶が天浦城を居城にしていたとは考えられません。筑紫氏にとって重要な博多方面のことを担当していて、この城を傘下に置いていたことは考えられます。現在も天浦城に関する地名が残っていますので、次回紹介したいと思います。

春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)

(市報かすが 平成30年1月15日号掲載)

写真:アスファルトと家の立ち並ぶ街並み
天浦城の西側と推定される場所

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