三十六と散使給
ページID:1011222 更新日 令和5年12月5日
どちらも須玖地区の字名で、歴史的背景をもって名付けられた地名です。
三十六は「さんじゅうろく」と読み、県道31号線沿いの福岡市に近い、桜ヶ丘2丁目辺りにある古代の条里制にちなむ地名です。条里制とは土地区画制度のことです。109m(1町)四方の区画を基本とし、これを1坪と呼び、基本単位の坪を6×6に並べた区画を里としました。
つまり、1里は109m×6、654m四方です。この1里における坪は、6×6、36坪あり、順番に一ノ坪、二ノ坪と呼んでいました。最後が三十六ノ坪です。三十六という地名は、時々見られますが、不思議なことに、他の坪はあまり見かけません。よほど末尾の坪が印象深く、地名として残ったのでしょうか。
条里制は、須玖から下白水、上白水方面にあったとされます。須玖東部の字の形に方形区画が多いのは、その影響かもしれません。
散使給は「さんじきゅう」や「さじきゅう」と言われ、地元では、「さんりきゅう」とも呼ばれていたようです。奴国の丘歴史資料館(岡本3丁目)と須玖小学校(須玖南2丁目)の間、弥生1丁目、諸岡川沿いの辺りです。
「散使」とは、中近世にみられる村落の役人です。中世では、村を支配する公文や名主、番頭の下で、通達や会計の役目をする下級役人でした。報酬として、田畑を与えられ、そこで耕作して、収入を得ていました。そして、その土地を散使給や散使免(田)などと、呼んでいました。
江戸時代の散使は村の連絡などを行い、報酬として、直接米を与えられ、田畑は与えられませんでした。須玖の散使給の地名からは、中世の須玖村に散使がいて、土地を与えられていたことを知る事ができます。
散使給の地名は筑前地域では須玖のみですが、豊前地域に多く、散使給が13個、散使田、散使畠が7個あります。散使田と散使給は同じ意味と考えられます。
土地の名称は、はるか昔に刻まれた歴史の記憶を伝えるものです。土器や石器のように、物として確認できるものではありません。また、古文書のように、文献としてはっきり残ったものでもありません。一つの文化財として、のちの世代に残す努力をしなければならないでしょう。
春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)
(市報かすが 平成29年11月15日号掲載)

このページに関するお問い合わせ
文化財課 整備活用担当
〒816-0861
福岡県春日市岡本3-57
奴国の丘歴史資料館1階
電話:092-501-1144
ファクス:092-573-1077
文化財課 整備活用担当へのお問い合わせは専用フォームへのリンク