太宰府天満宮の領地 須玖村武末

ページ番号1011762  更新日 令和5年12月5日

観応(かんのう)3(1352)年2月の「安楽寺領注進目録(ちゅうしんもくろく)」という太宰府天満宮関係の文書に、須久村武末名(すぐむらたけすえみょう)が載っています。

安楽寺とは、太宰府天満宮のことです。安楽寺天満宮として、寺と神社が一体で運営されていました。注進目録とは、当時安楽寺が所有していた領地のリストです。

安楽寺は、大宰府より九州一円に領地の寄進を受け、多くの荘園群を持ち、石清水八幡宮や宇佐八幡宮などとともに、中世の大荘園領主でした。

文書では、廊子村(ろうじむら、老司村・現福岡市南区)や水城空閑(くが、現太宰府市)などと一緒に書かれています。この文書により、須玖村が約700年前には既に存在していたことが分かります。「須久」と書かれていますが、これは書き誤りか、発音が同じ久の字を当てたのでしょう。古文書にはよくあることです。

武末名の「名」とは、中世の徴税単位で、名ごとに年貢や公事といった土地にかかる税を納めていました。この名を管理し、納付に責任を負うのが、名主(みょうしゅ)です。名の実体は、ほぼ荘園と同じです。荘園には、この名が複数ありました。当時の須玖村の範囲はどこまであったかは分かりませんが、須久村武末名は、須玖村の中の一部だったと思われます。

現在でも武末名の名前を残す字が、竹末として旧大字須玖の中心部にあります。旧大字須玖の中心の神社は老松神社(おいまつじんじゃ)です。老松神社は菅原道真(すがわらのみちざね)を祭り、天満宮関係の神社です。

中世の寺社の荘園には、村の繁栄を祈るため関係する神社を置きました。その一方、神の恩恵を与えるだけでなく、税を納めなかったり逆らったりなど、この地を侵すと神が怒り、恐ろしいたたりを受け、身を滅ぼすぞ、と威嚇する意味もありました。特に天神様のたたりは恐ろしいものでした。

安楽寺文書に一緒に書かれている福岡市南区老司、太宰府市水城の村の神社は、須玖と同様、菅原道真を祭る老松神社です。安楽寺天満宮の重要な荘園である、肥前国小倉荘(こくらのしょう、現佐賀県基山町)などには、天満宮を置いています。このように、小型の領地には老松宮を、大きい重要な領地には天満宮を置きました。

なお、この時代は「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)」ともいわれ、吉野の南朝(なんちょう)と京都の北朝(ほくちょう)が対立していただけではなく、北朝方の武家も足利(あしかが)氏内部で尊氏(たかうじ)方と実弟の直義(ただよし)と尊氏の長男直冬(ただふゆ)が連合して争い、敵と味方が入り乱れる動乱の時代でした。このような時代の中で、安楽寺天満宮は領地の経営に大変苦心していました。所有する領地の確認のため文書を作ったのでしょうか。武末名のその後は、何の記録もなく、どのようになったかは不明です。

春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)

(市報かすが 令和2年3月15日号掲載)

写真:正面から撮影した老松宮の外観
老松宮

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