戦国大名軍と戦った村

ページ番号1012438  更新日 令和5年12月5日

立花道雪(たちばなどうせつ、戸次鑑連(べっきあきら))は、豊後を拠点とした戦国大名大友氏の宿老(しゅくろう)で、猛将としてその名を知られています。この立花家の家臣が記した「豊前覚書(ぶぜんおぼえがき)」に、大友軍と戦った村の記録が残っています。

天正(てんしょう)6(1578)年以降、筑前を本拠地としていた道雪は、大友軍の先鋒に立ち、背振山地東側を勢力下に治める筑紫氏など、筑前への進出をもくろむ勢力と、数年間にわたる戦いを繰り返していました。

本能寺の変が起きた天正10(1582)年、大友軍は、現那珂川市の岩戸庄を攻めます。岩戸庄の後方の山には、筑紫氏にとって重要な城である一ノ岳城(いちのたけじょう)がありました。

この時、現在の那珂川市中原地区にあった「大久庵村(だいくあんむら)」の人々は、村に城を築き、大友軍と対峙しました。豊前覚書には、村の入り口に堀を巡らし、700~800人の村人が立てこもったとあります。一つの村としては人数が多いため、周辺の村人も含まれていたものと思われます。大久庵村は、隣接する上白水地区にあった乳峰寺の末寺とされる大機庵(だいきあん)の由来だと考えられています。上白水の村人も加わっていたのではないでしょうか。

大友軍はこの城を攻め落とすことができず、引き揚げたと書かれています。さらには、大友軍の将兵たちが「城はこのような所に築くべきだ」と皆で褒めたという記述があります。村人たちの勝利です。

村人たちは、なぜ城に立てこもったのでしょうか。当時の村は、戦いの際、敵方の軍から容赦ない略奪を受けました。これは「乱妨(らんぼう)・乱取り」と呼ばれ、食糧や財産だけではなく、人そのものも奪われました。村人たちは乱取りから逃れるため、財産を手に山中や領主の城に逃げ込むか、自ら築いた城に立てこもらなければなりませんでした。大友氏と秋月氏の戦いでは、大友方だった宇美周辺の村人は山の中に、糟屋以北の村人は領主の城である立花城に入って難を逃れています。

乱取りされた人々は、親類縁者に買い戻されることもありましたが、その多くは奴隷にされ、人身売買されました。大友氏と島津氏が激突した耳川(みみかわ)の戦いでは、大友氏が大敗し、たくさんの豊後の人々が売られました。そのあまりの多さに価格が下がったという話が伝わっています。また、南蛮貿易のルートで、世界各地に売られた人々もいました。日本から遠く離れたアルゼンチンに「ハポン」姓の人の記録があります。ハポンとはスペイン語で「日本」という意味です。人身売買された人々だと考えられます。

大久庵村の人々は、このような過酷な運命の中、一歩も引かず、大友軍と戦い、生き抜きました。現在を生きる我々には想像もつかない、必死の思いであったでしょう。

城が築かれた場所は、現在の新幹線車両基地のすぐそばです。車両基地の建設により昔の地形は壊されてしまいましたが、丘陵の裾を巡るように道として残っている低い土地が、堀の跡だと考えられています。また、城の中心部と思われる高台が、青葉桐の花保育園の敷地内に残っています。

春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)

(市報かすが 令和2年9月15日号掲載)

このページに関するお問い合わせ

文化財課 整備活用担当
〒816-0861
福岡県春日市岡本3-57
奴国の丘歴史資料館1階
電話:092-501-1144
ファクス:092-573-1077
文化財課 整備活用担当へのお問い合わせは専用フォームへのリンク