村の寺

ページID:1012437  更新日 令和5年12月5日

市内には、春日の長円寺(ちょうえんじ)、須玖北の無量寺(むりょうじ)、下白水南の浄運寺(じょううんじ)など伝統ある古い寺があります。江戸時代になると幕府の政策で寺の運営は安定しますが、それ以前は大変でした。

鎌倉時代、日本の総人口は600万人程度だったと考えられています。この時代は、飢饉(ききん) 、疫病などが繰り返し人々を襲い、社会組織や生産力を破壊しました。そのため、農村部は人々の定着度が弱く、流動性の高い社会だったと考えられています。このため、荘園を持ち、自活できる伝統的大寺院以外の寺は、生活費を有力者の土地の寄進(きしん)や布施(ふせ)に依存していました。ですが、それも不安定で、京都の臨済宗(りんざいしゅう)大本山建仁寺(けんにんじ)でも、栄西(えいさい)の時代、寺に食料がなくなり「寺絶食」に陥ったことが記録されています。地方の農村部で有力な寺院も、たとえ領主の祈祷寺であっても、領主の盛衰に左右され、一代や数代で廃寺になることも多かったと言われています。

上白水にあったと言われる乳峰寺(にゅうほうじ)は、宝治(ほうじ)2(1248)年、筑前守護の少弐資能(しょうにすけよし)の援助で承天寺(じょうてんじ)三世寂庵(じゃくあん)が開山していますが、その後、南北朝期の戦乱の中で焼かれ、滅んでいます。記録では、この乳峰寺の僧が住んだと考えられる威徳庵(いとくあん)が弘安(こうあん、1278〜1287)年間に作られたとあります。この小寺院は、明治の初め頃まで上白水にありました。

南北朝期から室町時代になると、飢饉や疫病に襲われながらも、社会は安定し、人口は徐々に増えていきました。農村部も定着度が増し、私たちが知るところの「村」が成立し始めます。

15世紀前後は、日本の社会が大きく変わった時代です。近世に続く農村組織が成立し、農民は団結し、村掟を決めていました。年貢などの税を村で一括して領主に支払う「村請(むらうけ)」を行い、独自の軍事警察力を持つ「惣村(そうそん)」が作られていきました。この結果、村は強くなり、村有財産を持つに至り、領主に頼らずともさまざまなことを行うことができるようになります。このような中で、多くの村に寺が成立したと考えられます。

中世の惣村と称される菅浦湖岸(すがうらこがん)集落(滋賀県長浜市)は、自立的村落共同体として知られ、15世紀頃には、70戸ほどの戸数しかないにもかかわらず、3つの寺と12の庵と坊がありました。庵や坊に住む僧侶の生活は村人と変わりなく、自活し、村の行事に参加したり、戦いのときは共に戦ったりしていたと思われます。

春日の長円寺は天正(てんしょう、1573〜1592)年間に成立したと伝えられています。最初は阿弥陀寺(あみだじ)と呼ばれたようです。阿弥陀寺跡が惣利地区にあります。無量寺は、行明上人(ぎょうめいしょうにん)が天文(てんぶん、1532〜1554)年間に小倉に創建し、その後火災で焼失しましたが、享保(きょうほう)9(1724)年、須玖に再興されました。下白水の浄運寺は、前身が蓮華寺(れんげじ)と言われています。蓮華寺は、乳峰寺の末寺として威徳庵と共に作られたという記録もあります。現在の寺田池の西方の一ノ谷薬師(いちのたにやくし)の場所が、蓮華寺跡だと伝えられていますが、寺として鎌倉時代から廃絶することなく続いたものかどうかは分かりません。

春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)

(市報かすが 令和2年7月15日号掲載)

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