人生大逆転 石清水八幡宮の成清
ページID:1011758 更新日 令和5年12月5日
石清水八幡宮の祠官(しかん)「成清(せいせい)」が、白水の地名を初めて文書に残した人であることは、多くの人がすでにご存知でしょう。この人の人生は、浮き沈みのある大変なものでした。父は、石清水八幡宮のトップであった「光清(こうせい)」です。成清は、光清が40歳を過ぎてできた子どもです。男子としては末子でした。成清が11歳の頃、光清が亡くなり、父の保護を受けられず苦労します。母が同じの男の兄弟はいませんでした。母は花園小大進(はなぞののこだいじん)、姉に待宵小侍従(まちよいのこじじゅう)がいました。母も姉も当時有名な歌人で、成清が書いた句も新古今和歌集に一句残っています。
当時、石清水八幡宮の主流は、異母兄の「勝清(しょうせい)」とその子「慶清(けいせい)」でした。成清はこの2人と仲が悪く、次第に争いになっていきます。永暦(えいりゃく)元(1160)年、二条天皇が石清水八幡宮に行幸します。その時成清は、「法橋(ほうきょう)」という僧侶としては上から3番目の高い地位に叙せられますが、その時勝清によって妨害を受けます。その後は、苦労して宇佐の弥勒寺講師職(最高官)を得ます。
しかし、彼を支援していた建春門院(けんしゅんもんいん)、後白河院妃(ごしらかわいんひ)、平 清盛(たいらの きよもり)の妻の妹)が安元(あんげん)2(1176)年に亡くなると、立場が悪くなり、治承(じしょう)4(1180)年には、弥勒寺講師の職を、勝清の子どもである慶清によって奪われます。その間にも、宇美八幡の荘園の領有争いで敗訴します。成清は失脚し、石清水にいられなくなり、高野山随心院に隠棲します。当時は平家の世の中。勝清、慶清らの石清水の主流は、平家と仲が良く、平家のために祈りをしていました。石清水八幡宮が、朝廷や平氏と密接な関係を持つのは当然のことでした。慶清にも、他の選択肢はなかったことだと思います。
しかし、平家の政権は倒れます。源 頼朝(みなもとの よりとも)は「宮寺(石清水八幡宮)中に、平氏祈らず者を選ばれる」と平家寄りのものを排斥します。そこで平家とは距離を置いていた成清に、白羽の矢が立ったのです。文治元(1185)年、成清は弥勒寺講師に再び戻ることとなります。その後、文治4(1189)年、高野山を出て、石清水の最高官「別当」になりました。皮肉な結果です。
成清も兄の家系と争わず、そこそこの地位に我慢していれば、別の結果になっていたでしょう。平穏な一生を過ごせたかもしれません。ですが、名前は残らなかったでしょう。その後、彼の家系は善法寺(ぜんぽうじ)家として、田中家(勝清、慶清の家系)と石清水八幡宮を二分する家系になっていきます。
失脚が大成功につながりました。人間分からないものです。成清は失意の中で彼を保護した高野山に恩義を感じ、後年、自分の号(苗字のようなもの)を「高野(こうや)」と名乗りました。
春日市郷土史研究会 寺﨑 直利(てらさき なおとし)
(市報かすが 令和元年7月15日号掲載)

このページに関するお問い合わせ
文化財課 整備活用担当
〒816-0861
福岡県春日市岡本3-57
奴国の丘歴史資料館1階
電話:092-501-1144
ファクス:092-573-1077
文化財課 整備活用担当へのお問い合わせは専用フォームへのリンク