筑紫氏

ページID:1012439  更新日 令和5年12月5日

戦国時代の終わり頃、春日市は筑紫氏の勢力下にありました。筑紫氏は、一国を支配するような戦国大名ではなく、一郡から数郡を支配する国人(こくじん)や国衆(くにしゅう)と呼ばれる勢力で、その名前から分かるように筑紫を本拠地としていました。

筑紫氏の出自は、鎌倉時代から代々筑前守護だった少弐(しょうに)氏の一族という説や、その少弐氏と結んだ足利 直冬(あしかが ただふゆ、 足利 尊氏(あしかが たかうじ)の長男)の子孫という説、筑紫野市にある筑紫神社の神官という説などがありますが、はっきりとは分かっていません。家紋は少弐氏と同じで、少弐氏と行動を共にしてきたことから「少弐恩顧(おんこ)の者」と言われていました。

室町時代から、少弐氏は周防国(すおうのくに)山口に勢力を持つ大内氏と戦い続けていました。しかし戦国時代に入ると、少弐氏の主軸として戦っていた筑紫満門(ちくしみつかど)は、大内氏の圧迫に耐えきれず、降伏して少弐氏から離反します。

満門の時代、筑紫氏は基山から鳥栖市にかけての 脊振山地東側を地盤にしていましたが、大内氏の傘下に入ると徐々に東肥前に勢力を拡大していきました。この頃、鳥栖市の脊振山地の麓(ふもと)に強固な勝尾城(かつのおじょう)を築いています。勝尾城は周囲に山城、谷に居館と家臣団の屋敷、町屋を有し、前面に惣掘(そうぼり)を持つ立派な城郭都市でした。

筑紫氏は主家(しゅか)をたびたび変えています。大内氏が衰退すると、その頃筑前に進出してきた大友氏の傘下となりますが、筑紫惟門(ちくしこれかど)の時代には、大内氏を滅ぼした毛利氏について大友氏と戦い、撃破しています。しかし、毛利氏が北部九州から退くと、筑紫氏のような一国人が巨大な力を持つ戦国大名にかなうわけもなく、再び大友氏に下ります。

その後も、筑紫氏は肥前で勢力を伸ばしていた龍造寺(りゅうぞうじ)氏と通じ、大友氏に反旗を翻しています。筑紫 広門(つくし ひろかど)は、大友方である那珂川市南面里(なめり)の鷲ヶ岳城(わしがたけじょう)を落とし、天正13(1565)年に宝満城をも奪います。ところがその翌年には、またもや大友氏につき、北上してきた島津氏と戦うのです。

こうして見ると、何だか裏切りの連続のように思えます。しかし当時は、ある意味当然と考えられていたかもしれません。

筑紫氏のような国人は独立した存在で、自分の家臣団を持ち、支配地域も自ら獲得していました。戦国大名との関係は、現在でいうと同盟が最も近い見方でしょう。実際、戦国大名が力を失うと彼らは離れていきました。国人は領地を与えられた家臣でないため、弱体化した戦国大名の傘下にいる意味はなかったのです。戦国大名も地域に根ざす国人たちをいかに自分の傘下に入れるか気を配っていたと思われます。

筑紫氏は島津軍に敗れますが、豊臣秀吉の九州平定に加わり、筑後国八女に一万八千石の領地を与えられます。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易(かいえき)となり、領地を取り上げられます。その後は、大坂の陣で功をあげて江戸幕府の旗本となり、幕末まで存続しました。

春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)

(市報かすが 令和2年11月15日号掲載)

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