お寺か神社か
ページID:1011763 更新日 令和5年12月5日
寺と神社の違いは見ただけですぐ分かります。
寺には僧侶が、神社には神官がいるのは今では当然のことです。ですが、これは意外と新しいことで、明治元(1868)年の新政府の布告によるものです。それ以前は、大きな神社は寺と一体となっていることが多くありました。石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)も神官は僧侶でした。比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)も麓(ふもと)にある日吉(ひよし)神社と一体で運営されていました。
「須久村武末名(すぐむらたけすえみょう)」が書かれている、太宰府天満宮文書「安楽寺注進目録(あんらくじちゅうしんもくろく)」の末尾に、これを書いた人物の名前があります。「都維那大法師実会(ついなだいほうしじっかい)、寺主大法師幸祐(じしゃだいほうしこうゆう) 」と、2人の連名です。都維那、寺主は仏教寺院において僧侶の役職を指します。都維那は寺院の庶務事項、僧侶の監督をする役目、寺主は寺院内の事務を管轄する役目です。その上に寺院内の最高責任者として上座(じょうざ)がいました。これにより太宰府天満宮の内部組織が寺院と同じであることが分かります。白水庄(しろうずしょう)を所有していた石清水八幡宮の関係の文書の中にも、上座、寺主、都維那が連署しているものがあります。
江戸期末ごろの太宰府天満宮の絵図の中に、東法華堂(ひがしほっけどう)、西法華堂(にしほっけどう)、多宝塔(たほうとう)、経堂(きょうどう)、護摩堂(ごまどう)などが描かれています。中世から江戸の初めころには、新三重塔、五重塔、九重塔などもあったようです。
天満宮は菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を神として祭る神社ですが、中世には、神は仏の化身と考えられていて、天神様(菅原道真公)は、仏としての顔を持ち、十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)や大自在天(だいじざいてん)と同一視されていました。そのため神を祭る神社は、仏も祭らねばならず、神に仕える神官は僧侶でもあったのです。
徳川幕府を倒した明治新政府は、国学の強い影響下に、江戸幕府の仏教優遇策に反対、神仏習合(しんぶつしゅうごう)を前近代的とし、神仏分離政策を進めたため、それが民間で激しい廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動となりました。それにより、神社では仏教部分が捨てられました。この時神社にあった優れた仏教美術品も捨てられ、海外に流失したものが多くあります。佐賀県基山町にある大興善寺(だいこうぜんじ)の十一面観世音菩薩は、元々太宰府天満宮にあったものですが、この時大興善寺に移ったものと言われています。
今、私たちは神と仏を区別して考えますが、近世以前の人にそのことを問えば「何で」と言われるに違いありません。
太宰府天満宮の奥に位置する宝満山の麓に竈門(かまど)神社があります。これも現在は神社ですが、以前は大山寺(だいせんじ)という寺でした。宝満山上の上宮(じょうぐう)、中腹の中宮(ちゅうぐう)、現竈門神社の所の下宮(げぐう)と3つで構成される天台宗系の山岳寺院でした。この大山寺も明治新政府の時、神社か寺かを選択しなければならず、神社を選んでいます。
私たちが当然と考えていることも、長い歴史の中ではさまざまに変わっていくものです。
春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)
(市報かすが 令和2年5月15日号掲載)
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