鉄砲盗人と言われた男

ページID:1012449  更新日 令和5年12月5日

天正(てんしょう)6(1578)年10月、その後の九州の戦局を大きく左右する、耳川(みみかわ)の戦いが起こります。この戦いで、それまで九州最強とも言われる勢力を誇っていた大友氏は、島津氏に大敗を喫しました。この敗戦の影響は大きく、大友氏に付いていた筑前や筑後の国人(こくじん)たちに動揺が広がります。自らの領地や権益を守るためにも、弱体化した戦国大名の傘下にいる意味は無いからです。実際、これを機にと大友氏から離反する国人も少なくありませんでした。

同年12月、大友氏の筑前支配を一手に引き受けていた立花 道雪(たちばな どうせつ)のもとに、筑紫氏の重臣、嶋 鎮慶(しま しげよし)(※)がやってきます。鎮慶は、江戸時代に記された『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』に下白水の天浦城(あまのうらじょう)を居城としていたと書かれており、春日市とも関わりの深い人物です。

大友氏にとって苦しい状況の中、筑紫氏の使いとして訪れた鎮慶を道雪は歓迎します。鎮慶は道雪の前に招き入れられ、耳元で密かに何かをささやいたと記されています。道雪はよほどうれしかったのか、鎮慶と食事まで共にしています。おそらく鎮慶は「筑紫氏は大友氏に味方する」とでも言ったのでしょう。 道雪は、傍らにあった二振りの刀のうち一振りを鎮慶に与え、さらに「大鉄砲拾丁、薬かめ拾を遣わす」と伝えます。筑紫氏は、大友氏勢力の西の境に位置していました。そのため、肥前の龍造寺(りゅうぞうじ)氏と対峙することになり苦労するだろうと、鉄砲10挺と火薬を10甕贈ったのです。道雪は、耳川の敗戦で大友氏に反旗を翻しそうな地元勢力のつなぎ留めに必死だったのでしょう。贈り物をもらった鎮慶は、機嫌よく歌など歌いながら、家臣と共に城を出ていきました。

ところが、しばらくして道雪のもとに耳を疑う情報がもたらされます。鎮慶は大友氏が支配していた博多の街に立ち寄り、こともあろうに大友氏の蔵を襲ったのです。顔をつぶされた格好となった道雪は激怒し、追っ手を差し向けます。しかし、その時にはすでに追いつける距離ではなく、鎮慶は悠々と筑紫野市にあった武蔵城(むさしのしろ)に逃げ込みました。

結局、筑紫氏は大友氏を離れ、龍造寺氏の傘下に入ります。記録では、筑紫氏が龍造寺氏に味方するという起請文(きしょうもん)は天正8(1580)年とされていますが、この時すでにその意思を固めていたのでしょう。

この時代、立花道雪といえばその名が世に知れ渡っていた猛将です。それをよくも簡単にだましたものです。恐ろしくなかったのでしょうか。道雪にこれだけ歓迎され、贈り物までじかに受け取りながら、その顔に泥を塗るとは大したものです。後先を考えない戦国人のすさまじさが感じられます。

この事件以降、立花氏と筑紫氏が合戦した際、立花勢は筑紫方を「鉄砲盗人」とはやし立てたという記録が残っています。立花家家臣により記された『豊前覚書(ぶぜんおぼえがき)』に書かれている戦国時代の面白いエピソードの1つです。

※ 「しずよし」とも読む。『豊前覚書』では、「嶋珍慶」と書かれている。

春日市郷土史研究会 寺崎 直利(てらさき なおとし)

(市報かすが 令和3年1月15日号掲載)

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