春日市歴史のあらまし

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福岡平野の南部に位置する春日市は、昭和初期頃までは丘陵の合間に農地や山林が広がり、かんがい用のため池が点在する静かな農村地帯でした。戦後は高度経済成長とともに宅地化が急速に進展し、県内有数の住宅都市へと変貌を遂げ、過去から大切に受け継がれてきた豊かな自然環境や歴史的文化遺産もまた、大きく姿を変えることになりました。ともあれ、春日の地では1万年以上も前から、既に人々の生活が営まれていたと推測され、以来、連綿と人々の暮らしが続けられてきたことが分かっています。

ここでは、旧石器時代から現代まで、春日市が歩んできた歴史のあらましについて追ってみました。

旧石器時代(~約1万6,000年前)

人類史の99パーセント以上の時間を占める、人間が土器を発明する以前の時代です。日本列島に人々が暮らし始めるのは9~8万年からとされますが、春日市域でも1万数千年以上も前の旧石器時代の遺物が各所から発見されています。新幹線博多車両基地内の門田(もんでん)遺跡、柏田(かしわだ)遺跡から出土した旧石器は400点余り。背後に牛頸(うしくび)山塊の樹林地、前面が那珂川流域の平地を通じて博多湾に接する春日市西南部は、太古の原始生活には格好の環境にあったことがうかがえます。人々は木の実を採り、動物を追い、魚を捕らえ、豊かな自然の恵みを享受していたことでしょう。

縄文時代(約1万6,000年前~約2,500年前)

土器の表面に縄目などのさまざまな文様をつける手法を特徴とする縄文土器は、世界最古の土器のひとつと考えられています。近年、約1万6,000年前に作られた土器が発見され、従来、約1万年前と考えられていた縄文時代の開始期は、大きくさかのぼることになりました。いずれにしても1万年をはるかに超える時間は、現代人にはとても想像できないような時の重さがあります。春日市では縄文時代の遺跡が数カ所で発見されており、そのうちの門田遺跡からは最も古い時期に属する爪形文土器が、柏田遺跡からは縄文後期の住居跡が見つかっています。

弥生時代(約2,500年前~紀元3世紀)

春日の歴史をひも解くとき、最も華々しい光彩を放っていた時期が弥生時代といえるでしょう。そして、春日市の急激な人口増加は、現代に初めて起こったというわけではなさそうで、弥生時代の人口の拡大も爆発的なものがあったようです。弥生時代の初め頃は小規模な集落が点在する程度だった遺跡の分布が、中頃になると一変し、春日丘陵北半部のほぼ全域に隙間なく集落や墓地が広がっていきました。古代中国の史書『後漢書』に記される「奴国(なこく)」の中心地とするにふさわしく、須玖岡本遺跡をはじめ、全国的に著名な弥生遺跡が市域にはひしめいています。このような状況は弥生時代の終わりまで続き、市内の各所からは当時の宝物である青銅器やガラス製品が多く発見されています。また、それらを生産するための鋳型などが集中的に出土しており、この時代の春日が、日本全土で最も先進的な技術・文化を誇っていたことを物語っています。

古墳時代(3世紀~7世紀)

4世紀頃からは各地の豪族による支配が相次ぎ、彼らは自らの領地を見下ろす場所に大きな塚を築き、自分たちの権勢を示していました。特に地域の首長の墓と考えられる前方後円墳は、那珂川流域の段丘上に集中しており、春日市域では日拝塚古墳など5基が確認されています。この他にも、市域には数多くの古墳や古墳群が見られます。古墳時代の終わりごろは飛鳥時代ともいい、538年に百済(くだら)から仏教が伝来し、607年に法隆寺が建立され、645年には大化の改新が始まりました。白村江(はくそうんこう、はくすきのえ)での敗戦を契機として664年に水城が築かれ、市域には一連の防衛施設である小水城が天神山と大土居に残っています。

奈良時代(西暦710年~794年)

大和朝廷による全国支配が進んでわが国が統一国家になると、西海道には大宰府政庁が置かれ、九州の政治、経済、文化の中心地となりました。奈良時代はこの体制が完成した時期と言えます。社伝によると、768年、かつて天智天皇が神を祭られたこの地に、時の大宰府長官が春日大明神を大和国から迎え入れ、春日神社を創建したとされ、ここに初めて春日という地名がおこることになりました。

東大寺の大仏開眼が752年、平安遷都が794年。この頃から田地を中心とした私的所有地である荘園(しょうえん)が広がりだします。

平安時代(西暦794年~1192年)

8世紀以降の博多は日本と大陸を結ぶ貿易基地として、ますます政治経済の重要性を高めていきます。これに伴って九州でも土地やその権益に対する争奪戦が繰り広げられ、春日市域もたびたび領主が変わっていたようです。

鎌倉時代(西暦1192年~1333年)

平安末期から鎌倉時代にかけて、白水(しろうず)、小倉(こくら)、須玖(すぐ)地域に荘園が成立しました。白水荘(しろうずのしょう)は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領、小倉荘(こくらのしょう)は宇佐八幡宮弥勒寺領(うさはちまんぐうみろくじりょう)、須玖村武末名(すぐむらたけすえみょう)(荘園)は太宰府天満宮(安楽寺)領と考えられています。また博多の承天寺(じょうてんじ)末寺として上白水に乳峰寺(にゅうほうじ)、春日に大光寺、下白水に蓮華寺(れんげじ)が創建されました。

この時代、1274年の文永(ぶんえい)の役と1281年の弘安(こうあん)の役と、九州では2度の元軍の襲来がありました。その際、大風が吹いて日本が救われたのは有名な話です。

室町時代(西暦1336年~1573年)

この頃は、南北朝の動乱を経て、全国に群雄が割拠する戦国の世へと至る戦火の絶えない時代でした。上白水の乳峰寺も兵火に遭って焼失し、白水地域にはこれ以降、板碑(いたび)と呼ばれる石碑や石塔などが数多く残されるようになります。

室町時代の末期、市域には春日、須玖、小倉、白水の4村がありましたが、これらの村は中世の在地領主によって細分化され、もっぱら収奪の対象となっていたようです。農民たちにとっては苦悩の時代と言えるでしょう。

安土桃山時代(西暦1573年~1603年)

戦国末期、九州では豊後の大友(おおとも)氏、肥前の龍造寺(りゅうぞうじ)氏、薩摩の島津氏が互いに覇権を争っていました。貝原 益軒(かいばら えきけん)の「筑前国続風土記」には下白水に筑紫氏の出城である天浦城(あまのうらじょう)が置かれて、島 鎮慶(しま しずよし)という武将がいたことが記載されていますが、手がかりが少なく詳しいことは分かっていません。1586年には島津勢が、大友勢の高橋(たかはし)氏が守る岩屋城(いわやじょう)を攻め、原村(はるむら)と春日神社を焼失させました。その後、九州を平定した豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)は1590年に天下統一を成し遂げましたが、長い戦乱のため民衆は経済的にも弱り果て、春日神社の再建はしばらく後のことになります。

江戸時代(西暦1603年~1867年)

1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川 家康(とくがわ いえやす)は、1603年に江戸幕府を開き、将軍を頂点とする中央集権的な幕藩体制を完成させます。1627年には福岡藩初代藩主・黒田 長政(くろだ ながまさ)の家老、黒田美作守一成(くろだみまさかのかみかずなり)が、長い間荒廃していた春日神社を再興しました。また、藩の増産政策としてかんがい用のため池や用水路が盛んに造営されます。須玖村の庄屋・武末 新兵衛(たけすえ しんべえ)による白水池の大改修や、小倉の大庄屋格・白水 喜四郎(しろうず きしろう)による小倉用水はその代表的なもので、市域には約60ものため池が造られました。1708年には下白水と上白水は藩の直轄地となり、御旗組八軒が置かれていたことから、幟町(昇町)(のぼりまち)の地名も生まれました。

江戸時代は幾度となく凶作にみまわれています。中でも最大の被害をもたらしたのは享保(きょうほ)の大飢饉(ききん)です。筑前国総人数調べによると3分の1の人が命を落としたとあり、この人的な痛手は明治維新まで1世紀以上の間、回復できなかったとされています。

明治時代(西暦1868年~1912年)

明治維新により260年以上続いた徳川の世が終わり、1868(明治元)年、江戸は東京と名を変え、その後は版籍奉還、廃藩置県と矢継ぎ早に旧体制が刷新されます。1869(明治2)年3月、新政府は各府県へ「諸府県施政順序」を通達。新政府の急務は教育によって人心の変革をはかり、西洋にひけを取らない技能と技術を身につけた国民の育成でした。しかし、政府が財源を確保しなかったため、地方の経済的負担は非常に大きく、新政府の思惑とは裏腹に公立小学校の数はなかなか増えませんでした。そこで政府は、1872(明治5)年、誰でも教育を受けられるように「学制」を制定します。翌年の1873(明治6)年、春日市域では須玖小学校(現在の春日小学校の前身)が創立。那珂郡67の村のうち、須玖村を中心とした11村の教育共同施設でした。

ただ、全てがうまく運んだわけではなく、労働力としての子どもを奪われ、学費負担も重なって、同年に旧筑前国全域を巻き込む筑前竹やり一揆が起きました。明治年間におけるわが国最大の農民騒動で、福岡県内の小学校が各地で破壊されました。今では考えられないような出来事です。このような庶民の実態を踏まえて政府は「教育令」、「小学校令」と教育制度の整備を進めます。

1889(明治22)年4月1日、「市制・町村制」が施行され、福岡県には福岡市と久留米市が誕生しました。春日市の前身である春日村は、春日、上白水、下白水、小倉、須玖の5つの村が合併して那珂郡春日村としてスタートしています。役場は下白水昇町に置かれました。この年に「大日本帝国憲法」が発布され、翌年に第1回の帝国議会が開かれています。

藩政時代に培われた農業基盤は明治になって花開き、福岡市周辺の農家は水田二毛作と牛馬耕技術によって全国的な先進地となりました。春日村も住民のほとんどが農業に従事する純農村のたたずまいを強めていきました。

1899(明治32)年、須玖の岡本で30面前後の銅鏡をはじめ多数の宝物を伴う甕棺墓が発見されました。後の研究によってこれを奴国王墓とすることが定説となります。

大正時代(西暦1912年~1926年)

春日村では大正時代に文明開化があったと言えるでしょう。初めての電灯は、1913(大正2)年に須玖区でともりました。春日区・小倉区は翌年に、上白水・下白水では1915(大正4)年のことでした。春日に、こうした急激な変化が訪れるのは、1924(大正13)年に後の西日本鉄道となる九州鉄道が福岡―久留米間に開通し、春日原停留所(駅)を設置したころからです。駅の西側の広大な土地に完成した総合運動公園は野球場をはじめラグビー場やテニスコートを備えていました。そこでは野球、陸上、球技、相撲などの各種の競技大会が行われていました。戦後、福岡市に平和台球場ができるまではプロ野球も行われるスポーツの中心地だったのです。また、豊川稲荷や営林署の種苗場ができ、桜並木に囲まれた龍神池は夏の花火大会でにぎわい、そのほか競馬場やイチゴ園もあって、まさに福岡の一大レジャースポットとして一年中大勢の人々が訪れていたのです。1934(昭和9)年には日米陸上競技大会が催されています。

昭和時代(西暦1926年~1989年)

第2次世界大戦が勃発し、世相が緊迫の度を高めるにつれて、春日をとりまく状況も一変します。競馬場には造兵廠(ぞうへいしょう)春日分廠が置かれ、渡辺鉄工所は九州飛行機工場に変わり、鉄道沿線地域には欽修寮、筑紫荘、春日荘など多くの工員団地が生まれました。戦後、これらの工場跡は米軍板付基地(春日原基地)に姿を変え、27年後の返還まで春日原周辺は基地の街として活況を呈することになります。

1953(昭和28)年の町制施行で春日村から町になって以来、市街地の整備や好立地が手伝って急激に人口が増加。春日は福岡都市部で働く勤労者の良好な住宅都市として発展を開始します。テレビ放送が始まって街頭テレビに人だかりができたのもこの頃。高度経済成長のうねりが大きく日本を包もうとしていました。

1972(昭和47)年の4月1日、春日町は3万人市制特例法により市になります。同年6月に返還された広大な米軍基地跡には、都市公園や教育文化・福祉施設、住宅地などが次々と整備されていきました。また、春日のシンボルを守る溜池(ためいけ)保全条例を施行するなど、環境保護への取り組みも活発になってきました。

平成時代(西暦1989年~)

1989(平成元)年にJR春日駅、翌年にはJR博多南駅が相次いで誕生し、ますます交通の便がよくなりました。1990(平成2)年には、とびうめ国体のサッカー競技も開催。1992(平成4)年にはJR春日駅そばに新市庁舎が完成しました。

1994(平成6)年には春日市いきいきプラザ、1995(平成7)年は春日市ふれあい文化センター、1998(平成10)年には春日市奴国の丘歴史資料館、2000(平成12)年には春日市民スポーツセンター温水プールと春日市福祉ぱれっと館、2004(平成16)年にはすくすくプラザが完成し、施設も充実。1996(平成8)年には人口が10万人の大台に乗り、春日市は未来へ向けてますます発展していきます。

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