奴国の時代

ページ番号1002283  更新日 令和4年8月2日

今から2,000年ほど昔のこと、弥生時代の福岡平野一帯は奴国(なこく)とよばれる国でした。

1万年以上も長く続いた縄文時代も、約2,500年前に日本列島で水稲耕作が受け入れられたことによって終わりをむかえ、稲作や金属の使用など新しい文化が開花する弥生時代へと移りかわります。また、弥生時代は日本列島にたくさんの小さな国が生まれ、互いに自分の国を大きくしようと激しく競いあっていた時代でした。

その中でも奴国は、大陸に向かう天然の良港・博多湾という地の利により、いち早く中国や韓半島からの進んだ文化を取り入れて発展した先進地域でした。春日市域では弥生時代中期から集落が急増し、奴国の中心地として成長していったことが、遺跡の発掘調査で裏付けられています。とりわけ、1899(明治32)年、須玖岡本遺跡で巨石の下に発見された甕棺墓(かめかんぼ)は、前漢鏡30面前後のほか多数の宝物が副葬されており、これを奴国王墓とすることが今では考古学上の定説となっています。

その後も勢いを増した奴国の王は、西暦57年、中国の皇帝(漢の光武帝)に使いを送りました。これを喜んだ光武帝は「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)」の金印を与え、正式に奴国の王を認めたと、古代中国の歴史書『後漢書(ごかんしょ)』東夷伝(とういでん)は記しています。奴国は日本列島の国の中で初めて世界の歴史に名を刻んだ国なのです。

さらに時代が下った弥生時代の終わりごろ(約1,800年前)、日本列島で最も勢力を誇っていたのは、女王卑弥呼(ひみこ)が治める邪馬台国(やまたいこく)でした。しかしなお、倭国(わこく)はまだ大小30余りの国に分かれて相争っており、その中にあって、この頃の奴国は2万戸を超える人々が住む有数の国だったことが『魏志』倭人伝には記されています。また、奴国の王都ともいえる須玖岡本遺跡周辺部では、弥生時代中期から引き続いて盛んに青銅器やガラス製品、鉄器などを生産していたことが、近年の発掘調査によって分かってきました。わが国最大規模を誇る青銅器工房で、大量に生産された銅矛(どうほこ)などは、西日本各地から朝鮮半島南部にまでもたらされており、奴国の影響力がいかに大きかったかを物語っています。

その後、大和朝廷が全国を治めるようになると、奴国の独自性も徐々に失われていきます。奴国の領域は儺県(なのあがた)と呼ばれるようになりますが、今も「那の津」「那の川」などの地名にその名残をとどめています。

奴国の工房の様子をあらわした図

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