考古資料展示室
ページ番号1009437 更新日 令和4年8月2日
考古資料展示室
春日市内の遺跡からの出土品を展示しています。資料館は弥生時代を代表する遺跡である須玖岡本(すぐおかもと)遺跡に隣接して建てられています。須玖岡本遺跡は弥生時代の有力なクニであった奴国の中心とされる遺跡です。資料館では奴国の時代の遺跡を中心に展示解説を行っています。
奴国
中国の史書である『後漢書』に「建武中元二年(57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。・・光武賜うに印綬を以てす。」という記述があり、このとき、漢の光武帝から賜った印が、天明4年(1784)に志賀島で発見された「漢委奴国王」という印文の金印であると考えられている。これによって紀元1世紀に奴国という有力なクニが出現していたことがわかる。
奴国の位置については、那の津という地名などから、福岡平野一帯をあてるのが定説となっており、また、質量ともに傑出した出土遺物を誇る春日市の須玖岡本遺跡周辺が奴国の中心であったとみられる。
奴国の中心地
福岡平野の南部に位置する春日丘陵周辺は、以前から青銅器(せいどうき)や鋳型(いがた)など弥生時代の貴重な遺物の出土が多い地域として注目されていた。また、明治32年には須玖岡本遺跡から奴国の王墓とみられる多量の副葬品をもった甕棺墓(かめかんぼ)が発見されており、この一帯が奴国の中心地と推定されている。
王墓出土鏡
須玖岡本遺跡の王墓には、30面前後の中国鏡が副葬されていた。とりわけ注目されるのは、3面の草葉文鏡(そうようもんきょう)で、いずれも面径が20㎝を超える大型鏡である。このような大型の草葉文鏡は中国でも出土例が少なく、奴国王の強大な権力を物語るものといえる。
王墓や王族の墓
奴国の範囲であったとされる福岡平野の中で、明治32年に須玖岡本遺跡で発見された甕棺墓“奴国王墓”以外に30面もの前漢鏡を伴うような“王墓”と言えるものはみつかっていない。
このほかにも、須玖岡本遺跡を含めた須玖遺跡群には、豪華な副葬品を持つ墓地がいくつも発見されており、奴国の中心地であったと考えられる。
大規模な集落
須玖岡本遺跡周辺には、弥生時代中・後期の集落が、春日丘陵北半部およびその周辺の一帯の広い範囲に展開する。赤井手(あかいで)・平若(へいじゃく)・大南(おおみなみ)・大谷(おおたに)遺跡など、小丘上に営まれた核集落が連続して大規模な集落を形成している。この大集落はその規模や密度もさることながら、出土遺物の内容が卓越しており、まさしく奴国の中枢にふさわしい遺跡といえる。
集落から発見された大溝
須玖岡本遺跡の周辺では、集落に伴う溝が各所で発見されている。このうち大南遺跡と高辻(たかつじ)遺跡E地点の溝は、谷を挟むが一連の遺構と考えられる。赤井手遺跡や竹ヶ本(たけがもと)遺跡の場合は集落の西側から検出され、須玖尾花町遺跡や須玖坂本遺跡では集落の北側ないし東側で確認された。これらの溝は須玖岡本遺跡周辺の大規模な集落全域を囲む一連の施設であった可能性がある。
弥生土器
弥生土器は朝鮮半島の無文土器の影響を受けて北部九州で成立した。日常土器の基本的な器種としては甕、壺、高杯(たかつき)、鉢がある。土器は地域や時期によってそれぞれ時期が異なっており、地域間の交流や相対的年代を把握するための貴重な資料となっている。
祭祀(さいし)土器
祭りに使用された土器は、日常土器に比べると形や仕上げに非実用的な特徴を持つが、区別が困難な場合も少なくない。
北部九州を中心とした地域では、中期に赤く彩られた優美な祭祀土器が発達した。甕棺墓地から出土することが多く、墓前祭祀などに使用されたと考えられる。
甕棺
甕棺墓は北部九州を中心として展開した独特の埋葬法で、大形の甕棺は壺の形態から発達して、大きさを増し甕形へと変化していく。
埋葬例としては、甕を2個合わせたものや、上甕に壺や鉢を用いたもの、単独の甕に木蓋を施したものなどがある。
小形棺には日常容器や祭祀土器などが用いられたが、大形の甕は埋葬専用につくられた。
武器形祭器
朝鮮半島から伝えられた青銅武器は、やがてわが国でも生産が開始され、しだいにその大きさを増していく。
青銅武器は元来副葬品として墓の中に納められていたが、中期も終わり頃になるとしだいに副葬されなくなり、代わって地中に埋められるようになる。埋納された青銅器はもはや武器としての機能は失われており、祭器であったと考えられている。
中広形・広形銅戈の出土地
中広形銅戈は、分布域が北部九州にほぼ限定され、この点銅矛とは異なる。広形銅戈は出土数が極めて少ないことから、鋳つぶされて広形銅矛の原料になったとする説もある。
中広形・広形銅矛の出土地
中広形および広形銅矛は、北部九州地域に限らず、中国・四国地方や対馬など広域に分布し、中には10本以上まとまって出土した例もある。対馬は広形銅矛の出土が特に著しいが、ここでは埋納だけではなく、墓にも副葬されている。
奴国の生産工房
弥生時代には青銅器、鉄器、ガラス製品の生産が開始される。これらの器物の生産には、原料を入手するための交易や、高度な技術、知識を必要とした。
奴国の中枢であったとされる須玖岡本遺跡の周辺には、青銅器・鉄器・ガラス工房跡が近接して分布する。このように先進技術をもった弥生時代の生産工房が集中する地域は全国でも他に例がない。
青銅器工房の復元
展示室前の青銅器工房ジオラマ模型は、須玖永田(すぐえいだ)A遺跡で発見された掘立柱建物跡を工房建物のモデルとし、また市内の遺跡から出土した遺物等を参考にして、復元したものである。
青銅器鋳造工房
青銅器の鋳造工房とみられる遺構は、春日市の須玖永田A遺跡や須玖岡本遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や安永田遺跡から発見されている。
須玖永田A遺跡や須玖岡本遺跡では、多数の鋳造関連遺物を伴う掘立柱建物跡が発掘され、周囲には内部の湿気を抜くための溝が巡らされていた。須玖岡本遺跡にはこのような遺構が連接するように多数存在しており、大規模な鋳造工房であったと推定される。
青銅器鋳型
青銅器鋳型の出土は北部九州と関西地方に集中する。その中でも須玖岡本遺跡周辺の出土数は突出しており、鋳型(外型)に限っても全国の3割以上を占めている。
鋳型(外型)は北部九州の場合、ほとんど石型に限られていたが、関西では石型から土型へとかわる。北部九州の鋳型石材としては、滑石片岩や石英-長石斑岩などが使用された。中期には両者とも用いられているが、後期になると後者に限定されていく。
ガラス工房
弥生時代のガラス製品としては、勾玉、管玉、丸玉、小玉などがある。鋳型の出土からすると、ガラス勾玉は福岡平野、佐賀平野、大阪平野などで製作されたことがわかるが、青銅器生産と同様、福岡平野の中でも須玖岡本遺跡周辺がその中心となっていた。
多数の勾玉鋳型をはじめ、未製品や坩堝、砥石などガラス製品の製作に関連した遺物がまとまって出土した春日市須玖五反田(すぐごたんだ)遺跡の1号住居跡は、全国で初めて確認された弥生時代のガラス工房跡である。
古墳時代
弥生時代の終わり頃には各地域に特色をもった首長墓がつくられていたが、3世紀の後半頃に出現した前方後円墳は、日本列島の広い範囲で共通性をもっていた。前方後円墳は6世紀頃まで300年以上にわたり各地に築造され、この間は古墳時代とよばれている。
奴国の故地である那珂川流域には前方後円墳が点在しており、春日市域は現在6基が確認されている。また、山麓部を中心に多数の円墳も分布している。
歴史時代
飛鳥時代から奈良時代にかけて、律令制国家が成立し、公民となった人々が多くの負担をしいられたことは、同時代の文献によって知ることができる。文献資料が残された時代を便宜的に歴史時代と呼ぶが、日本ではおおよそ7世紀以降をさす。
須恵器(すえき)の一大生産地である牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)の一部、大宰府の防衛線の一つである大土居・天神山の小水城跡、寺院への瓦の供給が推定されるウトグチ瓦窯跡。そして武士の居館と推定される上白水館跡などは、市内に散在する歴史以降の代表的な遺跡である。
大土居水城跡の木樋
国の特別史跡である水城跡は、7世紀後半に大宰府防衛の施設として築かれた土塁で、市内には大土居と天神山の二カ所に残っている。
県道拡幅のため平成9年に発掘調査をしたところ、道路下に残っていた土塁の基底部の中から導水管(木樋)が確認された。後世の用水路掘削によって上半部が失われていたが、下半部は良好な状態で出土した。杉などの大きな木材を加工し、大栓やダボを用いて堅牢に組み合わせて作られている。
大土居水城跡の剥ぎ取り土層
平成7年に発掘調査を行った際、下成土塁の北側の立上り部分の土層断面を実測、写真撮影後、断面に薄い布を当てて溶剤を塗り、土層を剥ぎ取った。実際の土層面とは左右が反転しているが、調査時の土層の状況を実物大で再現することができる。黒色土の断面形がウロコ状に見えている部分は、畚(ふご)で運搬した土の塊の単位を表していると考えられる。
復元された弥生琴
昭和53年、春日市の辻畑(つじばたけ)遺跡から弥生時代の琴が出土した。この展示品は、春日市郷土史研究会会員の篠原繁樹(しのはら しげき)さんが長年にわたる調査・研究を経て完成させた辻畑遺跡出土弥生琴の復元品である。
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